大判例

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大阪高等裁判所 昭和26年(ラ)3号 決定

抗告人 別所一彌

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

抗告理由は

一、該審判は、民事裁判の定法に反して、申立の主要理由を無視して行われている。

二、該審判は、行政機関のとつている法的措置と矛盾している。

三、該審判は現行憲法の精神に反している。

四、該審判は、戸籍の意義に関する誤られた先入観念に支配せられている。

理由の内容

一、申立理由として述べられている理由は、現行当用漢字になく、教職にある関係上、種々不都合があると云うのが一つの主要な理由になつているが、判決文には、此の理由を正面から取り上げて反駁していない。そして他の理由によつて判断しているのである。これは此の理由に関しては、審判官は非常に軽く考え、無視しているからである。無視している理由は、文化国家と云う事を強調し、それによつてのみ世界に存在しようとしている我国の現在からみて、此の種の問題を取扱うべき法官が当然持つていなければならない文化問題に対する認識を全然持つていないからであつて、それは驚くべき事実である。

そもそも文化と云うものは一朝一夕に出来上るものではない。無数の人の血の出るような努力が煉瓦のように積み上げられて出来るものである。そして、その積み上げる努力の大きなものの一つが此の漢字問題である。漢字問題が日本の文化にとつて過去に於て如何に深酷な障害であつたか、又、世界各国の相互関係が急速に密接化しようとしている将来において如何に急を要する問題であるかは法官として当然認識していなければならない事である。

しかるに、此の法官は、この血の出るような努力で積み上げられてゆく煉瓦を、取りくずすような事を平気で行つているのである。当用漢字と云うものが何故に制定され、単に制定されるだけでなく、凡ゆる努力によつてそれが実現されなければならないと云う事を全然無視しているのが此の判決文であつて、こうゆう重視しなければならない事を軽視し、又は無視している様な誤つた前提からは、正しい結論が論理上出て来るはずはない。内容的に誤つているのみでなく、論理形式上からも誤つている。

二、上掲の新聞記事は、国家の行政機関のとつている戸籍に対する法的措置である。審判官が此の種の事実を知つているかどうかは疑わしい。審理中にそれに関して、あいまいな答えをしていたからそう思われる。出生届出に於て当用漢字と云うものの精神がかく強く主張されているにはそれだけの国家的必要があつての事である。出生届出に於てそれほど重視されているならば、名の変更に於て、それと矛盾する措置がとられる事は判決文に云うところの法的秩序の維持の点から見て誤つている。すべてこうゆう文化問題に於て、一方でしている事を一方でそれに反して進んでいる様な事は最も国家的損失の大きなものである。

三、現行憲法は、個人を重視している。生命、住所、財産、信教等の自由を重視している。もし、誰それはどこに住んでいるからその住所を変更する事は許されないと云う事があればどうであろう。

名の変更が仮に社会に不便をあたえるとすれば、それは住所変更があたえる不便よりはずつと小さいのである。この不便の大小比較でもほんとうに先入主に捉われる事なく出来る人であつたら、こうゆう非文化的判決は下さなかつたであろう。況んや十年以上通名を使用し、社会に通用されている場合において、名をその通名にする事は、社会に不便をあたえない点に於て住所変更と比較にならない。

私は、個人として道徳上離婚に反対している。しかし現行憲法は離婚を許している。

結婚は本人の意思又は承諾による、一生の重要な事である。命名は結婚ほどに重要でない。しかも名前は本人の意思又は承認によらないで、本人以外の人がつけるのである。これを本人に一生強制しようと云うのは、明白に憲法精神に反している。

親のつけた名だからと云つて本人に強制するのも(審理中その言葉があつたが)憲法及び民法精神違反である。親と云うものはそうゆう強制力をあたえられていない。これは親に対する孝の観念敬愛の精神と又別領域の問題である。

世の中に、本人に関する事を、本人に承知なしに他人がきめて、それを本人に一生強制すると云う事がしてよいものかどうか、多くの人は、他人のつけた名を承認して一生使つている。それでよいのである。しかし何かの理由があつて之が変更を望むものにまでその変更を許さず、本人の好まないものを一生強制すると云う事は、法的秩序と云う言葉よりももつと深い基本的人権の問題である。

この基本的人権をふみにじつて言う所の法的秩序と云うのは、文明国の法的秩序ではない。

四、此の審判文にある戸籍の秩序に関する見解は、誤つた先入主に支配されている。戸籍の秩序は人間生活のためにあるのであつて、人間生活が戸籍のためにあるのではない。

名の変更を裁判所に申立て之を変更せんとする行為は、戸籍法を尊重した秩序ある行為である。もしそうゆう法的手順を経ないで、例えば役所吏員が勝手に変更したとすればそれは戸籍の秩序を反している。変更の必要ある場合に合法的に変更するのが秩序であつて、変更しないのが秩序ではない。

もし秩序とは変更しない事でありとせば、住宅、結婚、学籍、米穀通帳も変更しないのが秩序である。独り名前だけが神がかり的に他の社会的秩序に対して一切より上な一切より強い強制力をもつている。しかも不合理なと考えるとすれば、それは明らかに誤れる先入観念である。

審判文に、「個人の恣意」とか「みだりに」とかある言葉は、不当な言葉であつて、個人の意思は尊重さるべきであり、恣意でもみだりにでもない事は一項にのべた理由によつても明瞭であり審判文にこういう用語が「みだり」に使われる事は許されない。

審判文に個人の利害得失その他社会生活上の正当性の存する場合とあるが、個人の利害については十年以上通名が使用され親類知人その他一般が熟知使用している場合として、裁判所が之を無視している事は、必要ない所で個人の利害をふみにじつたものであつて、戸籍法そのものに照して不当である。社会生活上の正当性については論述した通りであつて、此の正当性が認められてこそ文化日本の裁判所にふさわしく、民主更生の国是を推進するか阻止するかがかかつている。

十年と云う歳月は決して短かい時日ではない。此の長期間本人の周囲社会に於て容認され来つたと云う事実は、此の審判文に述べられている如き軽い事実ではない。此の事実が不当に、又必要以外に軽視されているのは、審判を既成の先入判断によつて急いでいるからであり、本人及関係者にとつて重大な事が、第三者には軽く見え易いと云う人間の陥り易い弱点に陥つているのである。これは此の種の問題に於て避けなければならない点である。

法律上時効と云う制度が何故必要か、その精神が社会的秩序とどんな関係があるか長期に存在して事実にはどうゆう社会現象が附随しているか、それも考ふべきである。大なる理由として考うべきである。

尚審判文中にある「諸般の権利、義務に関する法的秩序の維持」と云う理由は、全くの錯誤である。

社会生活上の権利義務関係は、その関係当人が正当手続によつて改名する事によつて変化する場合は一つもない。法人が名を変更したがために権利義務に変更が生ずる場合があるが、銀行、会社の改名の場合について考えても明瞭であつて、例えば銀行預金が銀行改名によつて消失するか如何。

厳密を要する審判文にかかる明白なる錯誤が述べられている事は驚くべき現象である、と云うにある。

けれども所論の諸事情は戸籍法第一〇七条に云う名の変更の正当な事由とは認められないから、申立を却下した原審判は相当であつて、抗告は理由がない。

よつて主文のとおり決定する。

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